【ユメデモ、ウツツデモ】
触れたい、と思って手を伸ばした。その手はいつもあとほんの少しの距離であの人に触れるというところで、その射抜くような視線に怖気づいてしまい結局触れることなくひっこめられてしまう。
それを見てあの人は少し不愉快そうに眉を顰めてため息をついて、その場から立ち去ってしまう。
こちらのことを一度も振り向くこともなく、どんどん濃くなっていく霧の中へ、あの人…跡部さんは進んで行く。
俺もまたそれを追いかけようとするが、霧が視界を覆って一寸先すら見えない。
視界一面の、白。
「クソ……」
舌打ちをして下唇を噛む。
毎日毎日これの繰り返しで、あぁ、自分は何でこうも意気地がないんだろう、と自己嫌悪したところで目が覚める。
夢の真意など考えるまでもなくわかっている。俺は跡部さんに対して憧れとはまた別種の好意を抱いているからだ。そのことを自覚したのは最近のことで、それから毎日こんな夢を見るようになった。繰り返し繰り返し、まるで壊れた映写機のように何度も何度も同じ内容の夢を見せられている。もちろんこんな夢で寝覚めが良い訳もなく、毎日陰鬱とした気持ちで登校、朝練に臨むことになる。
しかしそんな鬱屈とした気持ちも、コートに入って向かってくるボールを打つことで段々薄れていき、徐々に夢の内容も忘れていく。そうして朝練が終わるころにはすっかりいつも通りの気持ちで教室に向かうことができる。
そうして授業を受け、放課後になりまた部活に励み、家に帰って予習をしてから寝る。それが俺の変わらない日常だった。
今日もそうであるはずだったのだが、朝練も終わりさっさと着替えてしまおうとロッカーの扉を開けると、後ろから自分を呼ぶ声が聞こえた。
「日吉。」
自分を呼ぶ凛とした声にロッカーの中を物色しようとしていた手が一瞬止まる。
そちらのほうを見なくてもわかる。聞き間違えるはずもない、跡部さんの声。
忘れかけていた夢の内容が一気に頭の中に浮かぶ。いつもは朝練のときに声をかけられることなんて滅多にないのに。
俺はそれを振り払うかのように軽く息を吐いて跡部さんのほうを見た。跡部さんは直前まで練習していたんだろう、首筋は汗で光っていた。
「…なんですか。」
「今日の放課後、次期部長の引き継ぎの件で話がある。生徒会室まで来い。」
「わかりました。」
首肯すると跡部さんも頷いて自分のロッカーの扉を開けた。
『次期部長』、『引き継ぎ』。その言葉に胸がざわつく。
もうすぐ跡部さんたち三年生は引退だ。
今みたいにもうテニスすることも、それどころか会うことすらできなくなる。
寂しい、とはあまり思わないが残念だとは思う。
まだ跡部さんに下剋上していないのに。
高等部に行ってからすればいいとは思わない。そもそも跡部さんのことだ、高等部に上がれば海外留学して下剋上どころではなくなってしまうだろう。
だから、できるだけ早い内に。
そう思ってはいても、跡部さんは最近何故か試合をしてくれない。
俺が申し込んでも少し眉を顰められ断られる。
前まではそんなことなかったのに。
そう言う風に断られるようになったのはちょうど、たしか俺があの夢を見始めた時期と同じくらいだった気がする。
放課後になると俺は一応鳳に言伝を頼んでまっすぐ生徒会室に向かった。
ここに来るのももう何度目になるだろうか。
今回みたいに引き継ぎの件で呼ばれることもあったし、委員会のことで呼ばれることもあった。
見慣れた扉をノックして待つが、一向に返事が返ってくる気配はない。
もしかしたら跡部さんはまだ来ていないのかもしれない。そう思ったので、少々憚られたが俺は試しにドアノブを回してみた。鍵はかかっていなかったようでカチャリと音を立てて扉は開いた。
そっと中をのぞいてみるとやはり中には誰にもいないようで、普段は跡部さんのせいで霞んで見える豪奢なデスクやソファーがその存在を主人の居ぬ間に主張していた。
跡部さんのことだから色々と忙しいのだろう。すぐに来られなくても仕方がない。俺はとりあえず待たせてもらうことにして部屋に入り、デスクの前に向かい合わせで置かれている来客用のソファーの端に腰を掛けた。
きっと跡部さんがくるまでそうも時間はかからないだろう、俺はそう思って適当に待っていたが、30分以上経っても跡部さんが来る気配はなかった
(いくらなんでも遅すぎじゃないか…?)
跡部さんがいくら忙しいからといって、遅すぎる。
次第に募っていく苛立ち。
「…はぁ。」
誰に聞こえるわけでもないのにわざとらしく溜め息をついて、俺はソファーの背もたれに脱力するように身を預けた。
「……。」
時計の秒針の音、遠くから聞こえてくる運動部の練習の声。こうして力を抜いてただただボ―っとしていると、それらの音がやけに心地よく響いてきて、眠気を誘う。
いけない、そう思ってはいても日頃の疲労のせいもあってか段々と迫りくる睡魔に、俺は抵抗できずにずるずると飲み込まれていく。
そして、またあの夢を見た。
今度はいつもと違う、跡部さんは俺に向かって何かを言っているがうまく聞き取れない。
俺はちゃんとそれを聞き取ろうとして近づこうとするが、不思議と体が動かない。手足の感覚が痺れているように薄い。そして四肢の感覚のみならず視覚や聴覚もいつもより感覚が鈍い気がする。
ぼんやりとした五感で跡部さんの声を聴こうと、姿を見ようと、触れようとあがく。
そしてついにその手が頬に触れると、跡部さんは一瞬驚いたような顔をして、しかしすぐに嬉しそうに笑った。
「…やっと触れてきたな、若。」
その言葉にぼやけていた視界が、聴覚が、四肢の感覚が一気にクリアになっていく。
跡部さんの笑顔が嬉しくて、俺はもう片方の手も伸ばしてそのまま跡部さんを引き寄せて唇を重ねた。
その唇は暖かくて、柔らかくて、夢の中でもこんなにリアルに感覚を持つものなのだろうかと思った。
どうせ夢の中なら、としばらくは何度も角度を変えて口づけていたが、ふと肘に当たった感触に気付く。
そちらに目をやるとそれは黒く光る革製の肘掛。
確かこれは生徒会室にあるソファーの一部だ。しかし今は夢の中で、今さっきまではなかった。そうだったはずなのに。
そういえば、先ほどまではなかった重みを膝に感じる。これは跡部さんが俺の上に乗っているのか。一つ知覚すると感覚はどんどん鋭敏になっていき、そしてやっと重大なことに気付く。
これは夢なんかじゃない。現実だ。
つまり、俺が先ほど跡部さんにしたことは…
「………。」
「………。」
沈黙が続く。できることなら今すぐ謝るべきなのだろうが、跡部さんの顔がまともに見れない。
普段は好む沈黙が、今ばかりは辛かった。てっきり激昂されるものだとばかり思っていたからこの沈黙は予想外で、なぜこの人はこんな時ばかり静かになるのか。恨めしく思いながら、しかし手を離すのもなんだったので俺は跡部さんの頬に手を添えたままにしていた。跡部さんの方も驚いて固まっているのか(この人に限ってそんなことはまずないだろうが)、それとも冷静になにかを考えてのことなのか、その手を払おうとも俺の上から退こうともしなかった。しかしその表情を確認する度胸も今の俺にはない。
時計の音が無機質にコツコツと一定のリズムを刻む。そのリズムをひたすら聞きながら目を逸らす。
「……。」
「……。」
一体どれほどそうしていたのだろうか、沈黙を突き破るようにして鳴ったチャイムと同時に、跡部さんは何も言わずに俺の頬に手を添えた。
「……。」
それに促されるようにして、俺はおそるおそる跡部さんを窺うように見た。
意外にも、跡部さんはゆるやかに微笑んでいた。
「…ったく、いつまで俺様を待たせる気だったんだ?」
その言葉の意味が呑み込めずにしばらく呆然としていたが、それがすぐに夢の話なのだとわかった。
…しかし、あれはあくまで『俺の夢』の話のはずだ。
この跡部さんの言い方だと跡部さんは俺と同じ夢を見ていたことになる。
俺が一人で混乱していると跡部さんは「まぁ、この際そんなことはどうでもいいが。」と、一つ咳払いをした。
「やっと触れられたのに、あれだけで満足なのか?」
そう言って跡部さんはいたずらっぽく笑って俺の瞳を覗き込むように見る。
その笑顔に夢がどうだとかそんなことはどうでもよくなって、俺は跡部さんの唇にまた一つ口づけをした。
「…そんなこと、あるわけないでしょう。」
そう呟いて俺はまた跡部さんの唇を堪能しにかかった。
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